随分昔、まだ大学院の修士の勉強をしていたころだったと思う。古い茶道月報を読みあさり、色々と調べ物をしていた時に、十三代円能斎が始められた裏千家の夏期講習会の期間が、一ヶ月もあったことを偶然に知った。
そのしばらく前に、学校で茶道を「授業」で教えるというお役を承り、授業における茶道とはどのようなものか、考えるようになっていた。その結果、大学院に進み「茶道と教育」をテーマに、実際は幕末から、明治以降の学制制定に伴って教科として行われた茶道を調べ、研究することになった。当時の茶道月報からは、教育的にも様々なことを学ぶことができた。特に、授業で茶道を行っているもののこのやり方ではだめだという校長からの批判や、もっとこうあるべきという意見は、大変参考になった。そしてそれを明記していることに、この本が公平性を保った真に価値のある刊行物であると、その素晴らしさを感じたことを思いだす。
話を戻そう。始まった頃の夏期講習は、割り稽古、小習、四ケ伝、奥伝、茶事まですべてを行い、学習していた。何とも羨ましい、一ヶ月間お茶づけである。すべては最終の茶事に向かって学んでいることを、系統だって積み上げて習得することができ、比較検討しながら、非常に論理的に理解できたのではないかと拝察する。それを吸収できるだけの力を持って参加されたであろう当時の講習生の鋭い感覚や動き、的確な疑問、意気込みがわかるような気がする。奥深い講習会だったことと思う。
講習会を始められた以外にも、円能斎のご功績はたくさんある。中でも代表的なのは、出版と点前の考案ではなかろうか。
一つ一つの点前の構造と全体の仕組みを知り尽くした円能斎は、茶道の隆盛によって点茶法が乱れていたことを危惧し、三十二歳で『浜の真砂』・『茶の湯道しるべ』を刊行、父又玅斎と共に『茶道 浦のとまや』を出版する。若くして家元になってから、十四年後の事である。点前の全体像を把握できるように書かれた書物には、小習いのほか七事式や茶箱、紹鷗棚など棚物の扱い、献茶の事、大炉や各服点、茶事などの記載もある。
三十九歳で三友之式を七事式に加え、盆略点前、各服点などは世情に合わせて生み出されたのか、最晩年には大円盆の点前、大円真と大円草をまとめられる。奥秘十二段の総まとめのような世界を、お盆一つに集結したその力は、円能斎という方の点前に対する思慮深さと高い理解力を感じざるを得ない。若年の頃より相当の速さで点前を身に着け、理論を展開、系統立てて整理したうえで人に伝える工夫をされたに違いない。
講習会も十三回目を迎えた時、大正十三年八月五日朝、講習会の開会に際し、円能斎は次のように述べる。
「近頃は余程よくなりましたので、私もできる限り皆様の稽古を見たいと思っておりますし、殊に茶の為に一命を捨てることは少しも惜しいとは想って居りませんから、寧ろ茶の為に死ぬのは本望と思っておりますから、毎日とはいかなくても、気分の良い日には此処へ出ましてお稽古を致しましょう。」
そしてその数時間後には、先人の待つ世界へと旅立ったのである。享年五十三歳、前年四月に淡々斎の長男、幼名政興、後の鵬雲斎大宗匠がお生まれになっていたことは、何よりの喜びだったであろう。夏にはそれを記念した「鯉桶香合」が好まれている。
最後となった講習会の前に体調が酷くお悪かった円能斎は、茶の為に一命を捨てる事は本望と思うくらい、何かを予感しておられたのかも知れない。十八歳で家元を継承、二十歳から二十五歳までを東京で暮らし、苦しい時も、楽しい時も、茶に生きて茶を全うした人生は、ただひたすらに、という言葉が一番しっくりくる。
ひたすらに我をなくしてされたご努力、そのお姿を、我々は知っておかねばならないと心から思う。
令和4年7月28日 畑中香名子


